福田 浩治 Follow

ライフコーチ・マインドフルネスインストラクター
今はまだサラリーマンですが、活き活きとチャレンジする人を支援するコーチとして独り立ちを目指しています。
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Skills

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上級
情報収集・分析
中級
ライフコーチ
中級
マインドフルネスインストラクター
初級
キャリアアドバイザー

Experience

1971 -
誕生
1961年大阪に生まれる 母は3日間陣痛に苦しんで、「こんな病院燃やしてやる~」と叫んだらしい。 最終的には帝王切開…生まれるときから親不孝ですね
1971 -
幼稚園
大阪市城東区の鯰江幼稚園に通いました。 帰宅前の集会でみんながうるさくて先生の声が聞こえないのに切れたり、合唱の練習中にトイレを我慢しきれずに漏らしたり、合奏の発表会で突然興味が湧いてタンバリンを全く違うタイミングで鳴らしたり…手のかかる子だったと思います
1971 -
小さい頃
とにかく仕組み。カラクリに興味があったようで、要らなくなった時計などを分解して遊んでいたようです。 お気に入りのTV番組はサンダーバードで、ストーリーに興奮しながらも、「中はどんな仕組みになっているんだろう」ということをいつも考えていました。
1971 -
保育園中退
父がパニック障害となり、私に気を使って保育園に通わせてくれようとしたのですが、 まず、入園時に怖くて教室に入れず、その後も帰りの通園バスを乗り違えるなどなど、結局嫌で半年もたたずに退園してしまいました。
1972 - 1973
小学校低学年
大阪市立すみれ小学校に入学 最初のペーパーテストで、何をどう答えればいいか分からず、教室に居残りになりました。 二年のときは九九の暗証がなかなかできず(今も苦手です)、これも居残り。 好きなTVはウルトラマン、怪奇大作戦。子供ながらに怪奇大作戦の人間ドラマと謎に惹きつけられました。 体育の授業で運動神経が壊滅的なことに気付かされました。 とかとかありながら、学校へは楽しく通っていました。
1972 - 1974
小学校高学年
恩師、堀江先生に出会いました。 「たわけ、ビンタ3つ!」と自分で自分をビンタ…自分を叱ることを教えてくださった素晴らしい先生です。 学校で教わるいろんな知識が新鮮で面白く、授業に夢中でした。 特に理科の実験は大好きでした。 学研の科学と学習は毎月貪るように読んで、付録で遊びました。 なぜか、学級委員長や登校班の班長もやりました。 好きなTV番組は、仮面ライダーで苦悩しながら戦う本郷猛に憧れました。
1975 - 1977
中学時代
大阪市立緑中学校に進学 運動神経をなんとかしたくて、日本拳法部に入部するも途中で挫折→帰宅部に。 SF小説「日本沈没」のお陰で地球物理学にすごい興味を持ち出しました。 同時に自動車レース/モータースポーツに強く惹かれました。 アニメ「宇宙戦艦ヤマト」にも夢中になりました。 最近のリメイク版も観ましたし、家にはヤマトが飾ってあります。
1976 -
父の他界
父が食道がんで他界しました、享年41歳 2学期の中間試験の初日の早朝に起こされ、病院で父の遺体と面会しました。 何故か悲しみ湧いてこず、涙も出ませんでした。 号泣しながら抱き合う母と妹を私はただただ見つめていました。 告別式に来てくれた友人は「泣いていると思ったのに、かえって微笑んでいるように見えてびっくりした」と言っていました。 このときの自分の中で何が起こっていたのか?未だにわかりません。
1977 - 1980
高校時代
大阪府立茨田高等学校に進学 母子家庭となり、公立専願で受かる可能性が高い+新設校で面白そうなことがありそうという理由で選んだ高校です。 甲斐あって3年間、地学部で高校生活をエンジョイしました。 生駒山に地質調査で幾度も登ったり、部長も務めました。 3年の文化祭ではクラスで自主制作映画を作り、脚本を担当しました…今思い出すと稚拙すぎてすごい黒歴史ですが、活動自体はとても楽しかったです。
1980 - 1983
学生バイト
私立大学に進学したので、奨学金ももらいましたが生活費を稼ぐために、近所のスーパー「マルエイ」で3年間アルバイトをしました。 大学の定期試験期間を除けば、平日に休みを一日もらうだけで大型連休中もずっと働きました。 レジ打ち、品出し、店頭販売にポップ書きといろいろなことをやらせてもらって、とっても楽しかったです。 この頃のレジは金額も品目も全部手打ちで、私はとっても早く打てるのが密かな自慢でした。
1980 - 1984
大学時代その1
大阪工業大学機械工学科に進学 進学理由は、エンジニアになりたかった、車関係の仕事をしたかった、ライン業務のような決まりきった仕事は自分には無理だと感じていたからです。 講義は教養も含めてとっても興味深く面白かったです。 一方で、当然落第はできませんので、定期試験勉強は必死でした、なかなか試験勉強がうまく行かない自分が悔しくて涙を流したことも一度ではありませんでした。
1983 - 1984
大学時代2
大学4年の研究室配属で、教授の共同研究先である大阪大学溶接工学研究所に行くことになりました。 そこで、恩師阿部信行先生に師事することになりました。 阿部先生は、この後の私のスタンスに非常に大きな影響を与えてくださいました、「新しい物好き」「チャレンジ大好き」「うまく行かない?いいね~」などなど 研究テーマは「タンデム電子ビーム溶接法の研究」 とてもチャレンジングで、面白い研究の日々が始まりました。
1984
大学院受験と卒業
阿部先生のアドバイスで、阪大の大学院にチャレンジすることに決めました。 一番大きな理由は、始めた研究が知的好奇心やチャレンジ魂を揺さぶって、面白くて仕方がなかったことです。 どうしても合格したくて試験までのほぼ4ヶ月間、全力を振り絞って勉強しました。通学中はもとより、停電すれば蝋燭の明かりで、眠くなればコンパスの針で足を突くなんてことまでやりました。 お陰で無事合格! 大学も首席卒業できました。
1984 - 1986
大学院時代
本当に色んなことをやらせてもらいました。 電子ビーム溶接やレーザー溶接の研究、ジャイロトロンプラズマの研究のお手伝い。 新しい設備の企画~立ち上げ、古くなって制御基盤がぶっ飛んだので、専門外なのに勉強して等価回路を組んで直したり、プログラミングしたり。 何度も徹夜もしましたし、論文の写真現像で合コンもキャンセルばかりでしたが、すっごく充実して楽しい日々でした。 戻れるなら、この頃に戻りたい!
1986 - 1987
Honda入社
元々のモータースポーツ好きから、当時まだ2輪メーカーのイマージが強かったHondaに入社しました。 就職担当の教授からは、なんでHondaなの? もっとしっかりした三菱とかマツダにも行けるのにと言われましたが、本田宗一郎さんが大好きだったので聞く耳を持ちませんでした。 ただ、入社して6ヶ月の予定だった現場実習が円高の影響で期間工さんを雇えないからと言う理由で12ヶ月に伸びたのは辛かったです。
1987
Hondaでの初期の出来事
本配属されて3週間目、出勤すると先輩が「おい福田、鈴鹿行くぞ」といきなり鈴鹿製作所に連れて行かれました。 その現場で「お前の担当はこの設備な、頑張れよ」と一言あったのみで後はほったらかし、まぁ裏では色々と心配してくださったみたいですけれど、なんて会社だとその時は思いました。今思えばやる気が奮い立った瞬間でもありました。
1987 - 1995
生産技術で頑張る
Hondaの生産技術会社であるホンダエンジニアリングに本配属されました。 仕事は自動車のボディの溶接生産技術の開発です。 配属早々、お手伝いで駆り出された現場の管理職に「何ですかあのやり方は?」と噛み付いて、その管理職がうちの課長に怒鳴り込んだのは、懐かしい思い出です。 鼻っ柱が強かったんですね~ 新機種の立ち上げ、新ラインの企画、ラインの改良とここでも楽しい仕事が一杯でした。
1993 - 1996
組合活動
ある日、上司に呼び出されて周りを先輩に取り囲まれ、「福田、組合役員やりたいと思わないか」と切り出されました。まぁ、有無は言えなかったです。 でも、通常業務と並行してやってみると、色々と面白かったです。資本主義でおまんま食ってるのに、共産主義なんてありえないだろっていう雰囲気でしたから共産色はゼロ。 仲間もいいやつばかりで、飲み会もいっぱいしました。 春闘の生々しい話が聞けたのも後々役立ちました。
1996 - 2000
次世代に向かって
今々の仕事の中で、私は不満を抱えていました。チャレンジが足らない、有り物の組み合わせなんて面白くない。 そんな中、社内公募で「将来を担う研究をやりたいものは手を上げろ」と 私はすぐに応募して無事採用され、新しい分野の研究を始めることになりました。 何をやってもいい…最初はそう言われ喜んだのですが、それがいかに難しいことか それでも頑張って取り組んだテーマは、今で言う「3Dプリンタ」の開発でした。
2000 - 2003
お客様のために
3Dプリンタは、残念ながら大量生産に向かず、先が見えてきました。しかしそこで補修部品の部署から3Dプリンタをやりたいので福田がほしいと言っていただき、転勤することとなりました。 その部署で先輩からのバックアップを目一杯受けて3Dプリンタの開発を進め、最終的にはS800のボンネットを復刻販売することができました。 その時に頂いたお客様からの「よくやってくれた」というお褒めの言葉は最大の勲章です。
2000 - 2006
子供のために
子供が小学校に上がるのにあわせて、2つのことを始めました。 一つは学童保育の運営役員、これは会長までやりました。以前の運営メンバーがいきなり放りだしてやめるという中、素晴らしい仲間と出会えて、ボロボロで倒れそうだった建物の建て替えまで実現できました。 新しい建物で嬉しそうに遊ぶ子どもたちの顔は本当に輝いていて、それを実現できたことは私の一生の宝ものです。
2000 - 2006
子供のために2
もう一つやったことはおやじの会の運営メンバーで副会長でした。 それは子どもたちをダシに呑もう…もとい親父が子供と遊ぶ機会を提供しようというもので、キャンプや初日の出/餅つき、スキーなど色々なイベントをやり、同時にオヤジたちの交流=本音の呑み会も楽しみました。
2004 - 2005
プロジェクトジプシー
3Dプリンタ開発はまだまだやることがあったのですが、上司から「業務見直しプロジェクト」への移動を命じられ1年、そして本部長直轄の「マーケット企画特別プロジェクト」に移動して1年、頑張りました。 新しいことが得意と思われていたのでしょうけれど、正直、新しいことを始めるのはとても楽しかったです。 特にマーケット企画では、マーケティングのエキスパートとペアでガッツリマーケティングというものを学べました。
2005 - 2006
管理職登用、そして挫折
2005年に、仲間や先輩、上司のお陰で管理職となることができました。 でもその時、調子よく頑張っていた自分には自分自身のコンディションが全く視えていませんでした。 ある日の出勤途中にいきなりの吐き気から駅のトイレに飛び込んだ私は、その日から会社に行けなくなりました。 頑張り過ぎの過労+仕事の責任へのストレスからの鬱の発症でした。 何度か出勤を試みましたが、果たせず、ついに半年間の休職をしました。
2007 - 2010
新しいチャレンジ
鬱から復帰して1年間、比較的楽な部署でリハビリして、やっと実戦部隊への復帰が叶いました。 仕事は「診断装置開発」のプロジェクトリーダー とは言え私と部下との2名体制です。移動して前任者に引き継ぎをお願いすると「資料を見ればわかる」、そして次の日その人は退職しました。そして3日後には本部長報告…相変わらずの会社です。なんとか乗り切り、その後は勉強しながら頑張りなんとか目処がついたのですが…
2010 - 2014
頑張った末にまた
診断装置の開発の中で私についた部下が曲者でした。 自分で解決しようとしない、私が打ち合しようとしても無視。報連相が絶望的。 新しいネタを探しては来るので、私もできる範囲で協力するのですが、自分の思い通りの協力でないと切れる。挙げ句にうちの部の関連職全員(海外駐在者も含めて)に私の告発メールを送り付けました。 テーマ推進はほぼ私一人、仕方がないので人を入れ替えようとしたところで倒れました。
2015 - 2018
鬱の連鎖の泥沼へ
このときの鬱では、なんとか3ヶ月で復帰しました。 今思えばそれがいけなかった。 なんとか元のように仕事できるように戻りたいという焦り、もっとできるはずだという思い込み、それを払拭していなかった私はこの4年間、復職しては頑張りすぎてメンタルが折れて休職というのを繰り返すことになりました。 自分で何故こうなっているのか分からず、頑張らなくてはの一心だけだったので、どんどん自分で悪化させていました。
2018 - 2019
マインドフルネスとの出会いと復活
鬱でもがいている中、ふとしたことからマインドフルネスに出会いました。 説明を伺ってみると理路整然としていて、なんとかなるかもと藁をも掴む思いで始めたのですが、半年、一年と続ける中でどんどんと改善し始めました。 最初は勝手に湧いてくる嫌な思考が途切れる程度、次に湧いてきたことに気づけて、気づけたらそれを観察できるようになって、ついには対策を打て始めました。 そうして、鬱で大コケしなくなりました。
2019 - 2020
本調子を取り戻し始めて
段々と通常ペースの業務に戻り始めると同時にマインドフルネスのお陰で集中力や観察力などの能力が以前よりも向上しました。 そうして、自分の部署の仕事を眺めていると色々と目に付き始めました。 もっとこうすればいいのに、もっとこういう仕組みにすれば、いつの時代の仕事のやり方?…などなど 目につくと居ても立っても居られない性分も復活したようで、様々な業務改善・改革を陰ながらスタートさせました。
2020 - 2021
これからどうしていくのか、したいのか
そうこうする内に、還暦、役職定年となりました。 それをきっかけに、この先自分はどうするのか?考え始めました。 このままでダラダラと定年まで行って、その後は隠居暮らし?…いやだな~死ぬまでワクワクドキドキワァオしていたい。でも、私は何がしたいんだろう、何ができるんだろう。 そう悩む日々が始まりました。
2022 - 2023
谷口マスターコーチとの出会い
悩む中で、私は谷口マスターコーチが主催するWEBセミナーに参加しました。 そのセミナーで、谷口コーチから受けたいくつかの質問…それが私が自分自身をがんじがらめに縛ってした鎖から一気に解き放ってくれました。 その瞬間、私はまさに目から鱗が落ち、視界がぱっと広がり、心がすっと軽くなりました。私の中にあった可能性、思いに自分自身で気づいたんです。 そこから私は自分で自分自身の人生を大きく変え始めました。
2022 -
ネクストキャリアに向けて
私はコーチングという、人の内側にあって気づいていない可能性を引き出し、ゴールに向かってチャレンジすることを支援する仕事に大きな魅力を感じました。 そしてそれをネクストキャリアの軸として活動を開始しました。 谷口コーチのプロコーチ養成講座「虎プロ」の受講 そこで出会った仲間とともにコーチングスキルを磨き合い、仕事をしながらクライアントさんを3名支援するまでになりました。
2023 -
さぁ進んでいこう
肝要は進み続けること 今年になって、有効性を感じて続けていたマインドフルネスの講師認定も受けました。 色々と価値を提供できるスキルが身につき始めたので、月に2回、実際に提供してみるトライを始めることにしました。 失敗を恐れない、いや失敗はチャンスとしてどんどん改善して成長していく、だから他にも気付いたらどんどんチャレンジしていこうと思います。
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