文章創作 【小説】
「見て、月が掬えそう」
そう言って彼女は、水の中へと指を滑らせた。ちゃぷ、と音がして、水面に映るその姿がゆらゆらと揺れる。秋の夜の風が草木を撫でる音だけが満ちる川辺では、彼女の手から溢れた音は、やけに大きく響いた気がした。彼女は両手をぴったりと合わせてお椀のような形を作ると、そっと身を屈める。
月が掬えそう、だなんて。随分と馬鹿げたことを言うものだと、口角を歪める。現に彼女が両手で掬いあげたはずの月は、その手の中で、ほんの一部分がきらきらと反射した光を湛えるだけであった。そして水面で揺れる月はと言えば、どこかが欠けたりすることもなく、それまでと同じように輝いている。きっと一生かかったって彼女は月を掬えない。でもそれを言葉にするのは何だか無粋な気もして、代わりに小さくため息を吐き出した。
「馬鹿なこと言ってないでさっさとこっち戻りなよ。風邪引くよ」
夏が終わったばかりとは言え、夜風は随分とひんやりとしている。こうやって川辺に腰掛けている自分ですら少し肌寒い。膝の下あたりまで水に浸かった彼女を案じてそう言えば、笑い声が返ってくるだけであった。
「馬鹿なことって……相変わらずだね。良くも悪くもロマンチックな感性を持ち合わせてないというかなんというか……」
「そうかな」
やや呆れた口ぶりで、そうだよと彼女は返す。決して大きな声ではないけれど、風の間を縫って、彼女の言葉はよく通る。水面で跳ねる月の光を受けて、彼女の瞳の中でも同じ色が踊っていた。
「まぁそういう所も嫌いじゃないけどさ」
控えめに付け加えると、彼女はもう一度水面に触れた。しばらくすると、どうやら満足したらしく、こちらへと向かってくる。時折飛沫が跳ねて、腕や顔を冷たそうに拭った。彼女の歩くテンポに合わせて、腰あたりまで伸びた黒髪が、ゆったりと揺れる。
「やっぱりちょっと寒かったかもしれない」 隣に腰を下ろした彼女はそう言って足を軽くさする。
「だろうね。だから早く戻れって言ったのに」
至極当然のことを言ったはずなのに、対して彼女は少し不服そうな表情を浮かべた。
「でもこんな立派な満月なかなか見ないよ、そこに関しては同意でしょ?」
俺の方を一瞥してから、再び視線は水面へと戻された。確かに、今日の満月はいつもよりも綺麗に見える。輪郭は綺麗な円を描いていてひとつの歪みもない。
「そうだね……だからと言って掬おうとは思わないけど」
「まだそれ引きずる?そのぐらい綺麗だったって話だよ」
「じゃあもし月が掬えたらどうするの?」
別に何か深い意図があるわけでもなく、何となくそう尋ねた。彼女瞬きをして、うーん、と考え込む。なかなか答えが出ないようで、しばらく色々唸っていた彼女だったが、ややあって、眉を下げてへらりと笑った。
「特に何かしたいって訳じゃない……」
なんだそれ、と思わず口にする。まあこちらも大した返事を期待していたわけでもなかったのだが。彼女は更に目を輝かせて続ける。
「でもさ、月が掬えたらって考えたらそれ自体でワクワクしない?」
「しないかな……」
「しないか……」 少しがっかりした様子で彼女は鸚鵡返しにそう呟く。 少し間を置いてから、でも、と彼女は言葉を続ける。あぁもうそろそろ潮時か、今から彼女が口にするであろうことをぼんやりと想像した。彼女と視線を交わせば、そこにはどこか冷たい感情が含まれていた。
「1番馬鹿げたことを考えてるのはさ」
うん。
「君の方だと思うよ?」
そうだね。
ざ、と一際大きな風が吹いて、思わず目をつぶった。次に目を開けた時には、彼女の姿はすっかり消えてしまっていた。彼女の言葉も、視線も、温度も、何一つ残っていない。まるで風が全て攫っていったかのようだった。 そう、1番馬鹿げていて、叶わぬ夢を見ているのは他ならぬ俺自身である。自嘲に唇を歪めて、手にしていた花束をそっと川に投げ入れた。 彼女に供えるために、買った花束である。手向けようと花束を買うのも、こうやって現実を受け入れられずに、彼女に会いに行くのを断念するのも、もう何度目になるか分からない。いつまでも彼女の幻影に追いすがって、諦められずにいるのだ。本当に、馬鹿げている。
月を掬いたいのと同じぐらい、いやそれよりももっと、現実離れしたものである。死んだ人間に会いたいと願うなんて。 本当はあの時、月ぐらい掬えるさと、俺は言いたかったのだ。だってそうじゃなきゃ、月を掬うのよりもっと無謀な俺の願いが叶うわけがない。彼女の望みを否定すればするほど、それはそっくりそのまま自分に返ってくるのであった。 ふと、月が綺麗ですねという言葉を思い出す。今夜の月は本当にその台詞が相応しい、見事なものであった。もっとも、言うべき相手はとっくにいなくなっているし、言ったところで、そんな詩的な台詞は君らしくないと、彼女に笑われただろうが。結局、月は見上げるぐらいでちょうど良いのだ。今みたいに、同じ目線にある月ならば、もしかしたら触れられるかもと変な期待を抱くのは、ただただ苦しい思いをするだけである。 しばらく川面を見つめた後、重たい腰を上げた。後ろに停めていた自転車に跨って、ペダルに足をかける。先ほどまで心地よく草木を撫でていたはずの秋の夜風は、いつの間にかすっかり止んでしまっていた。
