試供品が使えない

OVERVIEW

昨年、2年生の時のゼミ誌に寄稿した紀行文です。2020年の夏に書きました。コスメカウンターはいつでも私たちを出迎えてくれるよ!というお話。

遠いところに行って新鮮な景色を見にいくことも、夏休みらしいレジャーなんかも気軽に楽しむことのできない2020年の夏。
お洒落着を纏うこと。下地からファンデーション、セッティングパウダーや、アイシャドウパレットを選ぶこと。仕上げに睫毛を上げてマスカラを塗り、まぶたの中央に塗る細かいラメにまで気を遣って仕上げるアイメイク。お気に入りの口紅を一本と、その上に重ねるグロスまでこだわり抜いた化粧を自分に施すこと。どきどきしながらコスメカウンターに向かい新しい化粧品と出会うことは、わたしにとって、旅に行き、未知を知ることに匹敵する体験だ。
口紅やアイシャドウなど、顔を彩る化粧品を買うときは、図画工作の時間のように、どんな絵の具やラメを使って画面に色つけようか考えるときのときめきを。パウダーやファンデーションなどは、質の良さや求める仕上がりに沿った土台となる紙やキャンバスなどを買うときのような緊張と期待をはらんでいる。

わたしは最近、ツイッターで見たルナソルの紫色のネイルポリッシュ(05・Glow Shade)を買うために、新宿の京王百貨店の一階、化粧品売り場に向かった。百貨店に入ると、いつも背筋がピンと伸びる。百貨店なんて、子供の頃は親と一緒に来ておもちゃを買ったり、屋上で遊んだりするための場所だったのに、化粧品を買うために友人と一緒に訪れることもあるが、一人で訪れるなんて、自分も大人になったのだなあと思う。

区切られたスペースの中で、ずらりと並ぶブランドごとにコンセプトやイメージが違う装飾やデザインを眺めながら、ゆっくりと歩いた。どこのブランドも、コロナ対策で飾られている見本にはすべて透明なカバーが掛けられていて、テスターも外には出ていなかった。カネボウ/ルナソルのカウンターに着くと、二つのブランドを扱うコスメカウンターに美容部員さんは一人しかいなかった。もともとネイルポリッシュだけを買うつもりで訪れていたが、以前からルナソルのアイシャドウパレットも気になっていたので、できることなら試してみたいと思っていた。
コスメカウンターの魅力の一つとして、気になる化粧品をその場で美容部員さんに直接スキンケアやメイクを施してもらい、そのブランドの商品を試したり、使い方のアドバイスをもらったりするタッチアップが挙げられるのだが、コロナが流行して以来、感染予防のためにタッチアップができなくなっていた。
タッチアップができないのに値段の高いアイシャドウパレットを購入する勇気はまだわたしにはなかったので、今回はネイルポリッシュだけを買うことにした。

パキッとした山吹色のアイシャドウが魅力的な店員さんに「ネイルの見本は見れますか?」と声を掛けると、座席に案内され、すべてのカラーが塗られているネイルチップの色見本を渡された。
わたしは黒や紫、多色ラメの入ったカラーが好きだ。ルナソルのネイルカラーは、落ち着いている大人の女性に似合う色味が多い印象を受けた。ツイッターで見た、一度塗りで赤黒く見えるネイルポリッシュと同じ番号のチップを探す。しっかりと二度以上塗られているであろうそのネイルチップは、茶色と紫が混ざったような色をしていた。正直、この時点で思っていた色と違うなあ、と違和感を抱きつつ、一度塗りなら透けたような黒っぽい色になるのだろうと期待して、Glow Shadeを買うことにした。(正直、名前が素敵だったから買ったと言っても過言じゃない。)

コスメブランドでは大抵、小さなネイルポリッシュにもそのブランドのデザインの袋に入れて手渡してくれる。以前、アナスイでネイルポリッシュを二つ買った時もそうだった。店員さんが新品を持ってきて、品番に間違いがないか一緒に確認する。会計を済ませ、袋に詰めてもらったらあとは家に帰るだけだなあ、と思っていると、「お客様は今、お肌に関するお悩みなどはありますか?」と聞かれたので、わたしはニキビができやすいこと、鼻や頰はどんな下地を使ってもすぐ化粧が崩れてしまうことが悩みだと伝えた。以前から、わたしの肌は脂性肌だと自己診断していたのだが、「もしかしたらお客様はインナードライ(肌の内側は乾燥しているのだが、脂性肌と勘違いしやすい肌質)かもしれませんね。今は特にマスクでさらにメイクもよれやすくなっていますし、インナードライの方にオススメの洗顔と美容液のテスターをおつけしますね」とカネボウのスキンケアの試供品を4セット用意してくれた。ネイルしか買ってないのにいいのだろうか……。と思っていると、今度はリーフレットを持ち出し、ルナソルから新たに発売されるファンデーションの説明を受けた。わたしの肌悩みを解決してくれるようなとても興味深いものだったが、デパコスのファンデーションは学生のわたしにはとてもじゃないが簡単に手に取れるような値段ではなかった。すると、こちらも顔全体に最低でも2回は使えるだろう試供品を用意してくれた。ありがたいことにパフまで付いている。至れり尽くせりとはこういうことを言うのだろうなあ。

ネイルを買うまでの時間より、試供品の説明を聞きながら肌悩みやメイクについて話している時間の方が長かったと思う。2200円のネイルを買って、肌にあった試供品をもらえて、誰かとお化粧の話ができるなんて、実質無料ではないか。お値段以上に充実した時間だった。美容部員さんとの出会いは一期一会だと個人的に思っているのだが、またこの方に会えたらいいな、と思いながらお礼を言ってコスメカウンターを離れた。
満足感と期待を抱きながら家に帰って早速爪にGlow Shadeを塗ってみた。実際にはツイッターで見たような赤黒い色ではなかったが、今まで塗ったことのないような紫色をしていた。このネイルポリッシュにはGlow Shadeという美しい色名があるが、「二人静」という暗く深い紅紫に近い色をしていると思う。ルナソルのネイルポリッシュは容器のかたちも綺麗で、化粧台の上に置いて毎日眺めている。

ちなみに、試供品は一ヶ月が経とうとする今になっても一度も使えていない。特別な予定がある日の前日のスペシャルなスキンケアとして使おうと思っていたのだが、なかなかそのような予定もできなかった。(せっかくの夏休みなのに。)
今回もらった試供品に限らず、わたしは他のブランドでもらった試供品もいつか使う時が来るから、と使わずに取っておいてしまいがちだ。使わない方がもったいないのになあ、と思う。いい加減、試供品を試して気に入ったものがあったら、自分へのご褒美リストに加えておきたい。
試供品と同じく、気付いたら収集してしまうコスメブランドの袋は、財布とスマホだけを持って出たい時や、セカンドバッグのような使い方をしている。

お化粧やコスメが好きな人も、コスメに興味はあっても中々コスメカウンターに行く勇気が湧かない人も、それぞれいると思う。肌に合う化粧品を探したい、好きなブランドのアイシャドウを集めたい、容器やコンセプトが好きだから、たまたま通り掛って美しいと思ったから……理由が何であれ、百貨店の化粧品売り場はいつでも新しい出会いと輝きをたたえながらわたしたちを待っている。