-綰ねる努力-

 2020年の春、新型コロナウイルスが蔓延し学校は休講を余儀なくされ、オンライン授業の設備も整っていなかったため時間を持て余していた頃。私はSNS上に二次創作の小説の投稿を開始した。それは今現在も継続しており、週に1度7000から10000字ほどの小説を定期的に投稿している。当初は見るに耐えない稚拙な文章だったものの経験を積み重ねることで文章力は上達していき、今では人によく褒められる程度にまで成長し、自分でも文章を書けるようになったと自負している。


 そこで、私は今自分がどれだけ文章を書けるようになったのか、自分の書く物語が世間からどのような評価を受けるのかを確認したくなったのだ。私は今まで二次創作という「原作の人気に頼った創作」の枠から外れ、物語の内容やキャラクター設定などを全て1から自分で考える小説を書きそれを新人賞へ応募することにした。


 私は二次創作については「どれだけ完成度が高くても自分1人で完成させたものではない」と考えている。公式が黙認しているから許されているグレーな存在であり、たとえSNS上で多くの評価が数字として残されてもそれは投稿者・制作者だけの力量ではなく、元作品の人気にあやかっている節も少なからず存在していると考えているため、ここで自分の二次創作については記載しないことにする。


 8月7日現在小説はまだ完成しておらず、どれだけ語ったところで机上の空論であることに変わりはないのだが私の3年間の集大成としてここに載せようと思う。まだどこの新人賞に応募するかは未定である。調べたところものによって募集する作品のテーマや文字数の規定があり、初めて自分だけの力で物語を制作するにあたって、縛りのない自由な作品を作りたいと考えている私は、まずは応募先のことは考えず作品を完成させその作品が応募要項に当てはまっている大会に応募したいと思っている。




「刻限」

全てを飲み込むような暗闇の中男は一人そぞろ歩く。潮の香りを運んでくる海風が頬を撫でてきた。

 左手首に巻かれている腕時計に目を落とす。時刻は日を跨いでから既に五分が経過していた。咥えていた煙草を手に取り肺の中に溜まった空気を吐き出すと白い煙が寒空に溶けていく。

 この世に彼のことを知っている人は誰もいない。たった五分前、彼は世界から孤立した。

 やっぱりこうなるのか。紫煙混じりの溜め息を吐きながら歩道と海を隔てる柵に寄りかかり微妙に欠けた月が顔を出す夜空を見上げる。都会の濁った空気では満天の星空なんて見ることすらできない。男は雲一つない空の中一人激しい主張をしている月に思いを馳せた。瞼を閉じると、この数ヶ月間の多くの出来事がまるで走馬灯のように明瞭に思い浮かんできた。流れてくる多くの光景の中、共通して映っているのは太陽のように明るい笑顔を浮かべた愛しい女性の姿だった。鼻の奥にツンとした痛みを覚える。

 彼女にもう会えないと思うとこれまで無視していた恐怖と愁嘆の情が込み上げてくる。こんな感情に支配されるのなら出会わなければよかったのかもしれない。でもやはり、彼女と出会えてよかったと思えてしまう。短い期間ではあったが男はその女性に対して深い思い入れを抱えていた。

 男の脳裏に思い浮かぶのは今からおよそ十ヶ月前、ある桜の散る日のことだった。男の人生の歯車が、音を立てながら狂い始めた日である。


     1


「神崎誠一さーん。診察室にお入りください」

 独特の匂いと静寂に包まれていた部屋に間延びした声が響き渡る。忙しなく動き回っている看護師に名前を呼ばれた男は読んでいた雑誌から目を離した。硬い素材のソファから立ち上がるとその横に置かれていた本棚に雑誌を元あったように戻す。後頭部を掻きながら看護師たちのいる受付の奥に見える引き戸の方へと向かった。

 誠一は扉を三度ノックする。間髪入れずに「どうぞ」という返事が扉の奥から聞こえてきた。銀色の手すりに手をかけそれを横に引くと目の前に小部屋が現れた。隅々まで清潔感の行き届いている部屋の中、古い型のパソコンの置かれたデスクを前に白衣を纏う中年の男が鎮座していた。見た目だけなら五十代半ばほどだろうか。無骨な手の皺やマスクに隠されていない目尻辺りを見てそう判断する。噂通り腕の良さそうな医者に出会えて内心ほっとし、医者に促されて誠一は手前にある丸椅子に腰を下ろした。

「今日はどうされましたか?」

 営業向けの笑顔を浮かべながら医師が問いかけてくる。胸元のネームプレートには「院長 加山聡」と記されている。どうやら彼はここ、加山医院の院長らしい。市立病院のような大きな総合病院とは違いこぢんまりとした小さな病院であるが、腕がいいと近所でも評判で平日の昼間にも関わらず待合室のソファが足りなくなるほどには患者がやってきていた。

「ちょっと気になることがあってですね。これ、見てもらえますか?」

 バインダーを片手に構えている加山に向けて左肩の服をめくって鎖骨周辺を見せつける。白い肌の中心には不自然な三センチメートルほどのバツ印の紋様が浮かんでいた。顔を少し近づけてそれを凝視する加山は、何やら聞き取れないくらいの声量で独り言を呟く。

「二週間前くらいから浮かんできてて。触ったりしても痛みはないので何かの痕かと思って放置してたんですけど、なかなか消えそうにないんです。調べてもいい情報出てこないし、気味が悪いので聞きにきたんですけど……」

 この印を見つけたのは二週間ほど前、会社から帰ってきて風呂に入っていた時だった。痣や火傷にも思えたが負傷した覚えも痛みもなく、当初はすぐに消えるだろうと放置していたのだが数日経ってもそれが消える様子はなかった。気にしないようにするほど気になるのが人間の性であり、バツ印のような形になっているのも相まって無視できなくなったのでとうとう病院で調べることにしたのだ。

 マスク越しでも加山の表情が段々と真剣なものになって行くのが見て取れる。その後何やらデスクの上のパソコンでデータベースにアクセスし、見慣れない英単語が夥しいほど羅列するページを開いた。マウスで下にスクロールさせながら論文らしき英文を読みながら誠一の肩の印を見比べている。そして加山の顔は真剣なものからどんどん青ざめた動揺のものへと変わっていく。

 なぜ医者の雰囲気というのはこんなにも心を揺れ動かすのだろう。その道のプロを意識しなくとも心の底で信用しているからなのだろうか。まるで自分の心情とリンクしているんじゃないかとまで思えてしまう。

 何も言おうとはしない加山との間の空気感は誠一の心を嫌に締め付ける。自然と鼓動は早くなり喉が急速に乾いていくのを感じた。それは加山も同じようで、舌で乾燥した唇を潤しながらようやく口を開いた。

「……神崎さん。お聞きしますが……あなたの誕生日はいつですか?」

「誕生日? 二月の十八日ですけど。それとこのバツ印は何か関係が?」

 突然予想してなかった質問に呆気に取られながらも答える。今から二ヶ月ほど前に誠一は二十七歳の誕生日を迎えていた。この数年の誕生日は特段珍しいことが起きるわけでもなく普通に仕事をして過ごしていたため、誕生日を誰かに触れられること自体久しぶりだった。

「二ヶ月前……そしたらやっぱり……」

 顎に手を添えながら呟く加山の額に脂汗が滲んでいる。加山の雰囲気がだんだんと険しくなっていくにつれて、自分の表情がこわばっていくのがわかった。

「あの、何か変な病気なんですか……?」

 静寂な空気に耐えることができなかった誠一が時間と共に顔を青白くさせる加山に恐る恐る問いかけた声は震えている。まだ何も伝えられていないというのに、誠一の頭の中は不安で飽和していた。

「……ええ。残念ですが……神崎さんはとても大きな病気にかかっています」

 突然昔のバラエティ番組のように頭の上に鉄のタライが落ちてきたような気がした。少し前からあらかた予想していたとしても、実際に医者に伝えられた時の衝撃は大きかった。まだ形をしておらず空気のように曖昧だった事象は現実味という殻に覆われてしまう。それはまるで水銀のように重く、流れ込んだ腹の底にズンと圧をかけてくる。

 これ以上話を聞くのが怖かった。知りたくなかった。だが、知らなければならなかった。

 勇気を振り絞る誠一の喉からガスが漏れ出ているかのような音が鳴る。声にならない声は誰の耳にも届くことなく診察室に溶けていく。乾き切った喉を潤すためにペットボトルに残っていた水を全て飲み干し、軽く息を吐きながら加山の目を見た。

「先生、俺は……何の病気なんですか?」

 震え声で加山に問いかける。しばらくは目を閉じて黙りこくっていた加山だったが、ようやく口を開いて真相を語り出した。

「神崎さんの病名は……『刻限病』です」

「こ、こくげん……?」

 聞きなれない病名を鸚鵡返しする。こくげんとは刻限のことだろうか。刻限の病気とは何なのだろう。不安に満ちていた誠一の脳内に新しく困惑という感情が芽生える。自分でどれだけ考えても答えは出てくる様子はなく、伝えにくそうにしている加山の言葉を待つことにした。

「……刻限病とは平たく言えば人に忘れられていく病気です。数億人に一人の割合で発症する稀有な病気で、原因は未だ解明されていません」

 一つずつの単語を理解していくにつれ刻限病のことが理解できなくなる。なぜ自分がかかる病気が他人に影響するのかわからなかった。クエスチョンマークが踊る頭ではまともに咀嚼することもできず、ただ馬鹿みたいに口を開けたまま黙っていた。

「刻限病は誕生日に発症し、丸一年かけて症状を進行させていきます。関係性の薄い人から発症者のことを忘れていき、次の誕生日に全員に忘れられます。その程度を表すかのように体のどこかにはバツ印が発現し徐々に色濃くなるそうです。神崎さんの誕生日は二ヶ月前ですから、ようやく目で見えるほど濃くなってきたみたいですね」

 誠一は淡々と語られる病気の全貌の半分も飲み込めていなかった。非現実的でしかないその病気は怪異か何かなのではないかとすら柄にもなく思ってしまう。突然医者に「次の誕生日にあなたは知り合い全員に忘れられます」なんて伝えられて理解できる人がこの世にどれだけ存在するのだろうか。先ほどまでとは打って変わって疑問だけが脳内を埋め尽くす。

 自然と心拍数は平常時に戻っていく。つい数分前まで感じていた恐怖はとっくに消え去っていた。

「また刻限病にかかった人は今後、誰のことも忘れることができなくなるということも分かっています。ですから、神崎さんは自分のことを忘れた人たちのことを忘れることができないんです」

「は……はあ……」

「人が発症者のことを忘れるタイミングは日付が変わった時らしいですが、これ以上のことは誰も解明できていません。時間をかけるとともに研究者が被験者のことを忘れてしまうからです。データベースに載せられている研究録はどれも中途半端なところで終わっており、そこで被験者の方に忘れられたということが分かります」

 英語まみれのパソコンの画面を見せられても理解するどころか解読することすらできない。高校を卒業してからほぼ九年、あれだけ勉強したはずなのに読解能力が著しく低下していることを思い知らされる。病気とは一切関係のない事柄を考える余裕があるほど落ち着いている自分に驚きつつも、パソコンの画面から加山へと視線を移す。

「薬とかはないんですか?」

 一応確認のために尋ねてみる。

「そうですね……そもそも発症者が極端に少ないので臨床試験までできないので薬の開発が一切進まないんですよ」

「……なるほど」

「なので一応不治の病、という扱いになりますね。私の立場からこれ以上言えることはないですが……忘れられる前に、ご家族やご友人にお会いしておいた方がいいですよ」

  予想通りの答えとともに加山が最後に告げたのはそれだった。軽く頭を下げて礼を伝えながら診察室を出て病院を後にした誠一は胸ポケットから取り出した箱から煙草を一本取り出して片端を咥え、もう片端にライターで火をつけた。肺に溜めた煙を吐き出しながら雲がかかってきた空を見上げる。その時の煙草は人生で一番不味かった。


     2


 医者に不思議な病気に侵されていると伝えられても誠一の生活が大きく変わることはなかった。いつものように会社に行き、いつものように仕事を終え、いつものように家に帰る。関係性を危惧しないといけない人など、誠一にはほとんどいなかった。


 高校三年生の三月、誠一は有名国立大学の受験に失敗した。元々弁護士を目指しており司法試験の合格率が最も高い都内の大学に入るため死に物狂いで勉強した。模擬試験の評価も高く、自分も含め誰しも合格するだろうと思っていたが、現実は違った。何度見直しても張り出された壁紙に自分が探している番号は見当たらなかった。

 その日から誠一の人生は大きく変わった。元々陽気で成績優秀だった誠一はクラスの中でかなり人気者だった。部活でも吹奏楽部の部長を任されるほど人望もあったが、それを誠一は自ら捨てた。滑り止めの学校も受けなかったために浪人することが決まった誠一は友人たちから何度も励ましの言葉をかけられた。だがそれが彼には冷やかしにしか聞こえなかったのだ。自分に優しくしてくれる人たち皆心の底で自分を嘲笑っている。そう思い込んでしまうようになり、高校を卒業してからは一切の連絡を無視し続けた。

 日本人というのは良くも悪くも諦めが早い。卒業後ひっきりなしに続いた連絡も、数ヶ月反応がないと勝手に減っていき、夏を迎えた頃には完全に途絶えた。当時付き合っていた恋人との関係も自然消滅した。風の噂で、今は別の男と付き合っているらしいというのも聞いた。

 大学に落ちた次の年、弁護士になるのを諦めた誠一は中堅の大学に合格し四年間過ごすことになった。卒業後は今勤めている会社に就職し、そこそこの業績を残している。

 大学に落ちた後何より辛かったのは家庭だった。元々あまり良いとは言えなかった家族関係が、誠一の受験失敗というタイミングで完全に瓦解した。両親からはいないものとして扱われ、自宅は寝る場所と風呂とトイレを貸してくれるだけの存在になった。当初食事も出してくれてはいたのだが、それを避け続けた結果とうとう一食も提供されなくなり自分でアルバイトをして稼いだ金は食事代など生活に必要なものにほとんどが溶け残りは奨学金返済のための貯金に回すことになった。

 大学を卒業すると同時誠一は家を出た。引越し代も今住んでいるアパートの家賃も全て自分が負担した。引越しの日、両親は見送りに来なかった。一人暮らしをしてから既に四年が経過したが、両親との連絡は片手で数え切れる程度しかなかった。家族の縁は不滅だ、親は子供を見捨てない、なんて言葉はまやかしに過ぎなかったと思い知らされた。後一年もすれば向こうは自分のことを忘れる。いや、今の関係性を考えるならもうすぐ忘れるかもしれない。それは怖くなかった。むしろ今後都合良く年金が足りないから支援しろとか言われなくなると思うと気が楽だった。

 そんなわけで、今の誠一が気にしなければならないのは勤め先の会社のことと、周りが諦めてもなお諦めず連絡をし続けてくれたたった一人友人と呼べる彼のことだけだった。小学生の頃から仲が良く、別々の中学に行ってしまったが高校で再会した寺岡健吾という男だ。一流の私立大学に入学した彼は今はその業界で最も名前が売れているIT企業で働いているはずだった。

 久々に会ってみようか。いつものように仕事を終え、自宅で安い発泡酒を喉に流しながら携帯を取り出し連絡先一覧を引っ張り出す。十五人ほどしかいないリストの中、唯一仕事関係ではない男の名前を触る。海外旅行に行った際買ってきた土産らしいアイコンとその旅行先の有名観光地の看板の背景をしている紹介ページの左下あたりにあるトーク開始ボタンを押すと画面が切り替わり、薄い水色の背景のトークルームが開かれた。こちらから連絡を取るのは九年振りくらいだろうか。大学卒業後、何度か会ったりはしたが毎回向こうから電話をしてきたため、大人になってから誘うのはこれが初めてだ。キーボードを打つ指が緊張で震えている。近いうちに会えないか、という誘い文句を入力するだけで嫌に時間をかけ変な汗をかいてしまった。

 意を決して送信するとすぐに既読の文字がメッセージの左下に付与された。そしてすぐに「もちろん! 今週の土曜日って空いてる?」という返事かきた。土曜日は予定が入ってなかったはずだ、了承するとすぐに待ち合わせる場所と時間の話し合いが始まった。輝かしかった学生時代に一瞬戻れた気がして、少しだけ心が浮ついた。


 時間の流れというのは無情にも早いものでありあっという間に土曜日を迎えることになった。普段滅多に着ることのない仕事以外用の服に袖を通しアパートを後にした。もう四月も終わるようで、近所に植えられている桜の木には花びらがほとんど残っておらず、濃い緑色の葉が生い茂っている。それを横目にしながら歩いて十分ほどで到着する東京を走る環状線の最寄り駅へと向かった。

 ホームにやってきて二分ほど経過した時、銀と黄緑の列車が轟音と風を生みながら走り込んでくる。自動で開いた扉を潜り中へと入ると、白色の内装が広がっていた。晴れた日は日差しが窓から差し込みそれを反射させるせいで目が痛い。出勤する時も毎回使っているがこれだけはなかなか慣れず、目を眩ませながらまばらに空いているシートに腰を下ろした。携帯でくだらない薄っぺらく中身のないネットニュースを読みながら目的の駅に到着するのを待つとそれはすぐにやってきた。無機質な女性の声が車内で聞こえたかと思うとネイティブな英語が流れてくる。自分が目指していた駅の名前を読み上げられたのを耳にして携帯をポケットにしまった。

 日本で一番利用者が多いとされる駅はまるで迷路のように複雑だ。慣れてないと駅構内から外に出るのも一苦労である。ほとんどこの駅を利用したことがないだけでなく方向音痴である誠一は予想通り迷うこととなり、ネットで調べた所要時間より三十分ほど余裕を持って家を出たというのに結局待ち合わせ場所に着いたのは予定の五分前だった。

「あ、やっときたか! こっちこっち!」

 緑色のICカードを改札にかざすと短髪で背の高い青年がこちらを見ながら手を振ってきているのがわかった。今日会う約束をしていた寺岡健吾その人だ。

 自分よりも少し背の高い彼はいかにも好青年という感じだ。数年前から使ってる自分の服とは違い清潔感の溢れる灰色のスウェットを纏い丁寧に切り揃えられた髪から人の良さが滲み出ている。自棄になっていた自分をたった一人見捨てることなく今でも関わりを持ってくれているので当然と言えば当然だ。

「待ち合わせには遅れてないだろ?」

「まあね。でも俺誠一に誘ってもらえて嬉しいよ」

 歯を見せて笑う健吾には童顔なのもあって小学生の頃からの面影が残っていた。思わず懐かしさに唇の橋を綻ばせる。

「高校生ぶりだもんなあ。あ、とりあえずその店入ろうぜ」

 健吾と合流した誠一は少し歩いた先にあるカフェに向かって歩き出す。ドラッグストアの上の階に位置しているそのカフェに入店し店員に適当なコーヒーを二つ注文する。鼻腔をくすぐる豆の香りを感じているとすぐに湯気が立っている陶器を二つ手渡された。先に対面席に座っていた健吾の前に片方置き、その正面の椅子を引いて腰掛ける。

 自分からカフェに入ったくせに苦いコーヒーは苦手である。机の端に置かれている小さいカップを持ち出すと蓋を剥がし、内容物のミルクをコーヒーの中に流し込んだ。真っ黒い液体の中に渦を描くかのように白が混じっていく。小さいスプーンでそれをかき混ぜると程よい茶色に変わっていった。

「それで? 今日は何か用があるの?」

 何もカスタマイズしていないコーヒーを啜りながら尋ねてくる。そういえば、忘れる前に顔合わせしたいと思っただけで特に用事があるわけではなかった。多少甘くなったコーヒーを口に含みながら考えていると、何かを察したのか健吾は微笑みながら「そっか」とだけ呟いた。

「悪いな。特別用事もないのに呼び出して。久しぶりに顔見たかっただけだよ」

「別に? 今日は元々空いてる日だったし。最近お互い忙しくて会えてなかったもんね」

 数ヶ月前に健吾に一緒に飲みに行こうと誘われたことがある。だがその当時仕事が佳境に入っていて残業が続き、それでも終わらず持ち帰って家でも仕事をしていた時期だったので断ったのだ。無下に断るのも申し訳なかったが、別のことを考える余裕は当時の清一にはなかった。誠一の仕事が落ち着いた頃今度は健吾の方が商談が重なったとかで忙しかったらしく、結局半年以上顔合わせするタイミングを見失っていた。今までも何度かこちらから誘おうかと思ったが、なんやかんやと理由をつけてそれを避けている節があった。

「そういえば茜さんって覚えてる? この前結婚したんだって」

「……あ、ああ。そう、なんだ」

 茜とは高校生のこと付き合っていた恋人の名前だ。清川茜、同じ吹奏楽部に所属していた少し気弱な性格の女の子で、あまり表に立とうとはしない子だったが色白で端正な顔立ちをしていることもあり、男女共々から一定数の人気を稼いでいた。例に漏れることなく誠一もその一人であり、彼女からアプローチを受けた際は舞い上がりそうになる程喜んだ。学校一のカップルだなんて囃し立てられたこともあったが、その言葉さえも嬉しかった。

 しかし受験失敗を皮切りに彼女との関係性は完全に崩壊した。卒業直後は毎日連絡していた彼女だったがそれもすぐに途切れ、まるで泡沫のようにその恋は終わった。当然死ぬほど後悔したが全て自分に非があり誰のことも攻めることができず、当時は受験に落ちた時と同じくらい落ち込んだ。忘れられないというわけでもないがそれ以降恋人を作らなかった誠一とは対照的に、茜は新しいパートナーを見つけ伴侶にしたらしい。

 まだ一つ心残りがあるとするなら連絡を無視し続けたことを茜に謝ることができなかったことだ。どれだけ時間が経ってもそれを忘れたことなどなく、機会があれば会って謝りたいと思っていたがそれと同じくらい会うのが怖いという感情を抱えていた。それで結局彼女が結婚するまで引きずってしまったらしい。

 もう遅いかもしれないが彼女に会って謝りたい。だが刻限病が発病してそろそろ三ヶ月、もしかしたら彼女はもう自分のことを忘れてしまっているかもしれない。突然知らない人が現れて謝ってこられたら向こうも迷惑するだろう。彼女が謝罪を待っているとしても、彼女の中では自分のことを忘れることでそれは解決する。自分の中に永遠に消えない蟠りが残るだけで終わるのだ。それが自分に課せられた贖罪であるのなら、甘んじで受け入れるしかないのかもしれない。

「それよりもお前はどうなんだ? もう付き合い始めて三年くらい経つだろ、結婚とかは考えてないの?」

「うーん、近いうちにと思うよ。この前彼女の実家に挨拶にも行ってきたし。だから今は改めてプロポーズするために指輪探してる」

 これ以上茜の話を続けたら心がもたないかもしれないと思い話を健吾の恋人の話に切り替える。

 健吾が職場で出会ったという恋人は二歳年上の人だ。相手はもう二十九歳、そろそろ結婚してもいいだろう。ここまで世話になった友人の結婚は祝ってあげたい。健吾が自分のことを覚えている間に結婚してくれることを心の底から望むが、そんな自分の都合で彼らの人生を変えるわけにもいかずぐっと飲み込むことにした。

「誠一は恋人とか作らないの? 一人が悪いってわけじゃないけど、やっぱり一緒にてくれる人がいた方が支えになるしいいと思うよ。誠一はなんでも一人で抱えがちなこともあるし、相談できる相手がいてもいいんじゃない?」

 何の悪気もない顔で健吾が尋ねてくる。彼の性根から溢れ出る優しさは、今の自分には嫌というほど痛く突き刺さった。すぐに忘れられるというのに恋人など作れるはずもなかった。今まで恋人を作らなかったことが正しい選択だったとすら思っているくらいなのだ。

「……まあ、今はいいかな」

 変に勘繰られないように誠一は答えを濁す。だが健吾は諦めてくれなかった。

「俺の大学の後輩でさ、三つ年下の女の子がいるんだよね。悪い子じゃないし今度会ってみない?」

「ええ?」

 思わず素っ頓狂な声が喉から漏れ出る。

「無理に付き合えとは言わないけどさ。会うだけ会ってみてよ」

「いや、俺は……」

「いいから騙されたと思って会ってみなって。ゴールデンウィークの間どこか空いてる?」

 ああ駄目だと悟った。こうなった以上彼はもう梃子でも動かないだろう。健吾の変に頑固な性格は誠一が一番よくわかっている。気を紛らわせるためにすっかりぬるくなってしまったコーヒーを飲み干しながら健吾の方を見ると、目を輝かせてこちらの返事を待っているのが嫌でもわかった。カップを机に置きながらため息をつくと、携帯のカレンダーを開いて用事を確認する。当然ながらどの祝日にも予定は入っていなかった。

「……いつでも大丈夫だけど」

「そっか。じゃあ俺の方から伝えてみるね、日付が決まったら連絡するよ」

 もう二度と自分の都合で人との関係性を壊すのは嫌だった。たとえ後数ヶ月だけだとしても、こんな自分にも分け隔てなく接してくれる唯一の友人を失いたくなかった。それに自分の病状を見るに、相当相手の中で好印象にならなければ次の日には忘れてしまうだろう。そうなった時は健吾への言い訳を考えなければならないが、その程度は仕方ないだろう。


 結局、妙な約束を取り付けただけで今日は終わってしまった。彼も忙しいらしく午後からは用事が埋まっているとのことでその日は正午辺りで解散した。その帰り際、駅に設置されている喫煙所に入った健吾は煙草に火をつける。無意識に期待に心を躍らせているのか、その煙はやけに香ばしく感じた。


     3


 どうせ後少しすれば終わる関係値を築きに行くとわかっていても約束の日を心待ちにしてしまうのはどうしようもない男の性なのだろう。少しでもよく思ってもらいたいと思っているのか、わざわざ普段行かないような服屋に行ってネットで調べた通りの服を買い揃えていた。嫌に長く感じた一週間が過ぎ去ると、とうとうその日がやってくる。

 ゴールデンウィークの初日というのもあってか今日はいつも以上に人が多かった。鮨詰めのような状態の電車に辟易しつつも待ち合わせ先の駅に辿り着き、健吾を経由して交換した連絡先に電話をかけようとした時、ヒールが地面を突く音が近づいてくるのを背中で聞いた。

「あの、誠一さんですか?」

 後ろから少し低い女性の声が聞こえてくる。耳を傾けながら振り向くとそこには薄いベージュのスモックワンピースを纏いデニムパンツを履いた可愛らしい女性が立っていた。ヒールを履いた背丈は自分と頭一つ分くらい小さいので大体一五〇センチメートルほどだろうか。白い小さなハンドバッグを肩からかけているその女性は首を傾げながら誠一の返事を待っている。

「あ、えっと……琴音さん?」

「はい! 桜庭琴音です、今日は来てくれてありがとうございます!」

 笑顔を浮かべながら小さくお辞儀する彼女に少し心を動かされる。誠一はビジュアルもプロポーションも高い琴音に目を奪われ文字通り言葉を失っていた。

 琴音は健吾と同じ大学に所属していてサークルで知り合ったそうだ。抜群の美貌もありサークル内では相当人気が高かったという、どこかで聞いたことのあるような経歴を抱えているらしかった。最初健吾からその話を聞いた時は話を持っているのではと思っていたが、実際に出会ってみた今ではそれも頷ける。

「えーと、大丈夫ですか?」

 返事のない誠一を心配してか琴音が下から顔を覗き込んでくる。薄い化粧が元の端正な顔立ちをさらに引き立てていた。ふわりと優しい匂いの香水が鼻をつく。

「いや、なんでもない。それより今日はどこか行くの?」

「え? あ、何も考えてませんでした。じゃあ、近くにおすすめの喫茶店あるのでそこ行きませんか?」

「わかった、そうしよう」

 笑顔を浮かべた琴音は先導するように前を歩き出す。ヒールに慣れていないのか少し歩き方が辿々しかった。支えてあげようかとも思ったが、出会ったばかりの相手にそこまでしてやる義理もないと見て見ぬ振りをして黙ってついていく。何度かたわいもない会話を交わしたもののそこまで話が広がることはなく、結局無言の時間が多いまま目的地に到着してしまった。

 店の扉を開くと上の方に取り付けられていたベルがなり入店を店内に知らせる。マニュアル通りの店員の挨拶を聞き流しながら琴音に続くと、案内された窓際の席に腰掛けた。窓の外には街路樹が立ち並んでいて、風が吹くと木々が葉を揺らし乱雑な音色を奏でている。

「何頼みます?」

 それぞれの座席に備え付けにされているメニューを琴音が差し出してくる。軽く礼を言いながらそれを受け取って中を確認するも見たことのない名前の飲み物や割高な料理が複数羅列していた。この再値段はもう仕方ないと思い、比較的安めのアイスコーヒーを頼むことにした。注文票を片手に近づいてきた若い女性の店員にそれぞれ選んだものを注文すると、ボールペンを走り書きさせお辞儀をして奥の厨房へと戻っていった。

 しばらく無言が続いたがそれを破るようにトレイに二つの飲み物と必要量以上の生クリームが乗せられその上から赤いソースをかけられたパンケーキを乗せた店員が近づいてきた。誠一の前にアイスコーヒーを、琴音の前にレモンスカッシュのような色をした飲み物とパンケーキを丁寧に置いて帰っていく。琴音が目を輝かせながらナイフとフォークを手に取るのを横目にアイスコーヒーをマイルドにしようかと思ったが、変に格好つけたくなってしまいそれをやめ、ブラックのままコーヒーを口に含んだ。慣れない苦味が舌の上に走り思わず顔を顰めそうになるも、それをどうにか抑え込む。

「誠一さんも少し食べますか?」

 四分の一ほど減ったパンケーキを少し差し出しながら琴音が尋ねてくる。

「いや……いいや。好きに食べなよ」

「そうですか? それじゃあ遠慮なく」

 誠一はやんわりと断る。生クリームが苦手なのだ。昔まだ家族仲が悪くなかった頃、誕生日に買ってきてもらったショートケーキを食べたら気分が悪くなってしまいそれ以降避けるようになってしまっていた。誘いを断られても特に気にしてない様子の琴音は美味そうに小さく切り分けたパンケーキを頬張る。その表情は思わずこちらも頬を緩ませるほどだった。

「誠一さんって今何のお仕事してるんですか?」

 パンケーキを食べ終わり口元についたクリームを拭き取りながら琴音が話を振ってくる。自分の経歴などは誠一が苦手なジャンルの話だ。

「俺? 俺は一般商社で働いてる。そんな有名なところでもないよ。琴音さんはどこで働いてるの?」

 大して話が広がらないということは自分でもよくわかっていた。そのためさっさと切り上げて同じ話題を琴音に返す。下手に過去を掘り返されて大学などの話をされることだけは避けたかった。

「私はフリーターです。いつか自分でこんなお店持ちたいなーって思ってるんですけどね。だから今経験値とお金貯めてます」

「へえ。夢があるんだ」

「そんな大層なものじゃないですよー。ただの願望です」

「……それでも羨ましいよ」

 胸に覚えた小さな痛みを無視しながら呟く。大学受験の失敗を機に弁護士になるという夢を諦めた誠一にとって、社会人になってもなお夢を抱いている琴音は対極にいる存在だ。ただ馬車馬のように働くだけでなく目標を持てていることは羨ましかったが、それと同時に妬ましくもあった。琴音の今からでも叶えられる夢と、今からでも叶えたいと思う心が卑屈な誠一の足元を削り取っていく。

 だがそんな自分の感情だけで誰かに当たり散らすほど誠一は幼くない。これ以上琴音と一緒にいれば自分が惨めな思いをするだけでなく、琴音の将来すらも妨害してしまう可能性があると感じていた。夢を叶えられなかった自分の「陰」の部分がまだ将来をまっすぐ見据えられている琴音の光を遮ってしまうかもしれない。そう思うと、これ以上琴音に干渉してはいけない気がした。

 今日はもう解散しよう。そして連絡も取り合わないようにしよう。そう決意して口を開こうとしたのを琴音の言葉が遮ってきた。

「別に私は夢がある方が偉いとかそんなこと思わないですけどね。だって夢を持つのも目指すのもその人の自由じゃないですか。他人からの意見とかむしろ邪魔って感じで。誰に何を言われようが私は限界を自分で見るまで諦めないし、自分で無理だと感じたら潔く諦めるつもりです」

 琴音のその言葉は、大学合格を目指して頑張っていた当時自分に投げかけられた言葉の何よりも誠一の胸に突き刺さった。

 誠一は親や友人に期待されていたのだ。誠一ならできる、きっと受かると何度も言われてきた。だがその言葉は微塵も応援にはならず、受からないとそれに応えられないと誠一自身を焦らせるものとなっていた。無論受験に失敗した要因をなすりつけるつもりなど毛頭ない。だが期待という大義名分を背負った呪文はまるで鎖のように誠一の心に巻きつき縛り上げてきた。何より辛かったのは大学に受からなかったことではなく、その途端自分に降り注いできた大量の錘だった。

 自分の夢はいつしか周囲の夢となってしまう。周囲の夢を叶えるために自分が頑張らないといけない。そんな重圧を受けるのはもう嫌で、誠一は夢を持たないことにした。いつの間にか自分の夢が他人の夢になってしまうのなら、最初から持たなければいいのだ。そんな誠一の固定概念はたった今琴音の言葉によって砕け散った。

 健吾が必死に彼女のことを勧めてきたことが今なら理解できる。容姿もさることながら、他人のことを尊重し気遣いつつも流されず自分という「個」を持てる精神は一緒にいても苦しくなく、変な遠慮をせず接することができそうだ。しかしどれだけ仲良くなれても一年後には忘れてしまう。結局下手に相手に好印象を抱いたところで未来の自分の首を絞める結果にしかならない。口に合わないコーヒーは一層苦く感じていた。


「今日は色々お話できて楽しかったです。また機会があったら会いましょうね」

「……そうだね」

 その後琴音に対して少し心を開いた誠一はそれまでよりは話をするようになり、あれだけ控えていたにも関わらず時折自分の話を織り交ぜるようにもなっていて、いつしか出会ってから数時間が経過していた。オレンジ色の陽光が窓から差し込んできたことで、かなりの時間が経過したことに気づかされる。想定より長居してしまったので今日はお開きということになった。

 これからどれだけ会うようになるのかわからない相手でも男として最低限のことはしたいと、自分の家とは反対方向の彼女の家の最寄り駅まで見送った。敵的に機械音を流す緑色の改札機を挟み小さく手を振っている琴音に答える。こちらに向けられた琴音の背が遠のいていくほど、今まで覚えたこともない胸の痛みが強くなっていった。


     4


 琴音と初めて会って一週間が経過した。ゴールデンウィークも終わり普段通り仕事を淡々とこな巣だけの毎日に戻ったが決定的に違うことが一つあった。誠一の頭の中には、桜庭琴音という一人の人間が住みつきなかなか離れないでいたのだ。

 柄にもなく彼女に惹かれている。中学生の初心な恋みたいに琴音の存在が片時も自分から離れないどころか時間をかけて風船のように膨らんでしまっている。それはかなり苦しいものであった。

 二度と会いたくない。それでも会いたい。そんな葛藤が自分の中でせめぎ合い集中力を削ぎ落としてしまう。仕事に身が入らず部長に小言を言われることも増えていた。元々要量がよく仕事のできる人間だった誠一は部長に嫌われており、何かあるたび小言を言われているのは少し前から気づいていたので大して気にならなかったが、自分でも今までより仕事に集中できていないことはわかっていた。

 下手な間違いをして会社から厳罰をもらうなんてもってのほかだ。次の誕生日を迎える前にこの会社にはいられなくなる。その後どうやって金を稼ごうかまだ考えられていなかった。誰とも関わりを持たずに仕事をするなんてほとんど不可能だ、もしかしたら日雇いのバイトを繰り返して生活をしないといけなくなるかもしれない。そうなると、まだ安定して働けている間に貯金しておく必要があった。

 これは今後数ヶ月の仕事のため。そう自分に言い聞かせながら自宅で安い発泡酒を煽り携帯を取り出す。緑色のアイコンのトークアプリを開くと友達一覧から「KOTONE」と書かれているプロフィールからトーク画面に飛んだ。二人のやりとりは初めて会った日待ち合わせ場所の指定などをしているところで止まっており、以降互いに連絡を取ることはなかった。

 もしかしたら向こうはもう自分のことを忘れているのかもしれない。そんな感情が心の隅から侵食してくる。その事実を知るのが怖かった。だが意を決して、琴音に向けて今度会う約束を取り付けるためのメッセージを送信した。一分、二分、三分。壁掛けの時計の秒を刻む音だけが部屋に響き誠一を焦らせていく。実際十分程度しか待っていないというのに数時間経過したような感覚だった。じっと携帯と睨み合いをしていた誠一は突然のバイブレーションに体と心臓を大きく跳ねさせる。震える指で携帯を開き届いたメッセージを確認する。

『お久しぶりです、連絡くれて嬉しいです! 再来週の日曜日なら空いてますよ!』

 メッセージの文面からも彼女の明るい様相が浮かび上がってくる。何より琴音が自分のことをまだ覚えていてくれたことが嬉しかった。彼女の中で自分も、自分の中での彼女とまではいかなくとも大きな存在になっているということだった。口角を上げて携帯を見つめている姿は側から見ればかなり気持ち悪かったに違いない。

 結局琴音側の要望で再来週の日曜日に映画を見にいくことになった。なんだか来週あたりに公開される映画で、原作の小説が人気で実写映画化されたらしい。流行り物なんて一切知らない映画のタイトルを言われてもそれが何なのかわからなかったが、かなり面白いと熱心に説明していたので少し興味が湧いていた。それは作品に惹かれたのか、琴音の説明だから惹かれたのかはわからない。

 下調べのために小説を買って読んでみようかとも思ったが、それでもし自分に合わない作品だったら映画に行くのが億劫になってしまいそうなのでやめた。携帯のカレンダーアプリに「映画」という予定が新たに記されたことに心を躍らせながら、酔い以外の感情で火照る体にアルコールを流し入れ肺いっぱいにニコチンを吸い込んだ。肺胞一つ一つから体内に含まれていき血液に溶け出していく。

 一日一本、体に悪いとわかっていながら一服するこのひとときがたまらなく好きだった。大して彩りのない人生において酒と煙草だけが誠一のささやかな楽しみだったが、最近それに加えてもう一つ自分の中に明るい色が差し込まれた。

「そろそろやめようかな」

 口から白い煙を吐き出しなが独りごつ。煙草を吸い始めて約二年、絶対に吸い過ぎないようにと心がけているので中毒にはなっていないもののやめる理由もなくここまで吸い続けてきた。しかし煙草に変わる新たな楽しみができた今ならやめてもいいかもしれない。流石に酒はやめられないが。

 残り数ヶ月、自分が一人の人と世間で認知されているうちは煙草はもう吸わないようにしよう。灰皿に火のついた端を押し付けながら決意すると吸い殻をゴミ箱に投げ入れた。残り香の匂うワンルームの中携帯を立ち上げいつものようにくだらない俗世のニュースを流し読みしていると、今度は健吾からメッセージが届いた。確認してみると琴音との仲の進捗を聞くものだった。どうやら琴音から健吾には特に何も伝えてないようだ。

 素直に自分の感情を伝えるのも小っ恥ずかしいので適当にぼかしながら今度また会うことになったということだけ伝える。そのメッセージにはすぐに既読の文字が付与され、文字面からでも判断できるほどテンションの上がった健吾からはしつこくどういう話をしたのかだとか聞かれてきたが、答えたくなかったのではぐらかすだけにしておいた。こんな自分に今でもよくしてくれる彼には、忘れられる前にいずれちゃんと礼を伝えたいものだ。服の襟元から覗く忌々しい紋様を一瞥しながら軽く舌打ちをした。


「桜庭さんとは付き合おうとか考えてるの?」

 その週の末日。なぜか呼び出された誠一は健吾の家にやってきていた。健吾は誠一のアパートよりは幾分広い賃貸で恋人と同棲しており、たまに招かれて三人で飲み会を開いたりしたこともあったので、健吾の恋人である倉本麗花とはそこそこ親しい間柄である。今日も家に行くなりくつろいで行ってくださいと笑顔で告げられ、紅茶を淹れて持ってきてくれた。少々の気の強い性格だが根は優しく、健吾ともお似合いだと僭越ながらも思ったりしている。

「……さあ、まだわからないな」

 そんなこと絶対にできるはずがない。内心そう呟きながらも口先では悪口から否定せず曖昧な返事をする。

「でもいい子だったでしょ。誠一は人に過干渉されるの苦手だろうし、あの子みたいな子は向いてると思うけどな」

「まあ確かに……」

 図星を突かれて口籠る。間違いなく琴音に惹かれていることは自分でも嫌というほどわかっていたが、なぜかそれを悟られたくないと思ってしまう。

 ティーカップに淹れられた紅茶を啜ると口の中に茶葉の苦味と甘味が広がる。このままだと余計なことを滑らせてしまいそうな口をリセットさせた。一息入れた誠一はカップを机の上に戻しながら今度は健吾に話題を投げかける。

「それより今日はなんで俺を呼んだんだ? 別に琴音さんとの仲を聞きたかっただけじゃないだろ」

「あー、やっぱりわかっちゃうか。じゃあもう本題に入っちゃおうかな」

 ちょっと待ってて、と一言告げた健吾は立ち上がる遠くの部屋の扉をノックした。扉の奥の部屋にいた麗花を連れてくると再び誠一の正面に二人並んで腰掛ける。健吾たちのどこかどこかよそよそしい雰囲気から誠一はなんとなくこれから続く展開を予想できた。

「……誠一、実は俺たち結婚することになったんだ」

「そっか……。おめでとう、それにしてもこの一ヶ月でよく決めたな」

 予想通りの答えだったとはいえやはり親しい相手の結婚報告というのはこちらも嬉しくなるものである。だが一つ疑問に思うことがあった。

 前回健吾と会った時はまだ結婚を確約している様子はなく、自分がまだ覚えてもらえているうちに結婚式をして欲しいとを根強く思った記憶がある。会わなかった一ヶ月弱の間にプロポーズする決意をして実際に実行したということなのだろうか。頭の中にクエスチョンマークが踊っている誠一に健吾が続けて話をしてくる。

「麗花さんが四月から長期の海外出張に行くことになってさ、俺もそれについて行こうと思ってるんだ。だからその前にこっちで結婚式あげたいねって話になって、そのまま流れで結婚することになった」

 ああ、そういうことかと誠一は頭の中で相槌を打つ。確かに少し前から健吾達の会社が海外市場に本格的に乗り出すというのは聞いていたがようやく本腰入れて活動を開始するらしい。

「どれくらいの期間行くんですか?」

「最低二年って説明されたけど、向こうでの仕事具合にもよるっぽい。もしかしたら十年くらいかかるのかも」

 健吾に変わって麗花が説明してくれる。表情や雰囲気から出張が今から待ち遠しいというのが十二分に感じ取れた。海外出張なんて自分の勤めている会社では行われないのでどのようなものなのかは分からないが、相当実績を積み会社からも信頼されないと任されないものだというのはなんとなく理解できる。二人とも新卒の頃から同じ会社にいるはずなので、十年足らずで海外出張とはスピード出世に当たるだろう。

「それで十一月くらいに式を上げることにしたからさ、もし良かったら誠一も来てよ」

「当然。準備とか色々あるだろうけど頑張れよ」

 密かに願っていたことなので誠一は軽く心を躍らせる。一番の友人の晴れ舞台にだけは参加したいとかねてから思っていたので思わぬ形で叶ったことに感謝するも、式場に参列した人のうち自分のことを覚えている人がどれだけ減っているのかを想像するのが恐ろしかった。しかしそんなものはもう考えていたって仕方がない。どれだけ考えても治すことも未然に対処することも厳しいのなら考えないが吉だ。結婚式の日に居心地の悪さを感じるかもしれないが気にしない方が身のためだろう。


 刻限病が発症してからは一つの何でもない出来事がとても大きく、そして二度と経験できないもののように感じ取れるようになった。琴音と初めて出かけた日のことは当然のこと、会社で会議をしたことや後輩と昼食に行ったことでさえ大切に感じてしまう。人との関係性が数値化されない以上どのタイミングで忘れられるかは予測できない。感覚としてはランダムでその対象が選ばれるのと同じだ。どうせ誰かに忘れられるならもう誰とも付き合いを持たなくていい、という感情とあと少しで忘れられるなら残りの期間を楽しみたい、という感情が同時にせめぎ合う感覚は非常に苦しく自分が何をすればいいのか判断することさえ難しくさせる。自暴自棄になりつつも「余生」を大切にするという一貫性がなく支離滅裂な生活を送ることになっていても、琴音という存在が崩壊しかけている心を繋ぎ止めてくれていた。

 そして今日はその琴音と二回目に会う予定の日だ。近所の映画館がある商業施設で待ち合わせすることになっており、予定の二十分ほど前に到着して琴音からの連絡を待っていた。

「あ、神崎さーん! お待たせしました!」

 すると程なくして琴音が早足で携帯を眺めながら立っていた誠一の元に近づいてきた。それに気づいた誠一はすぐに携帯をしまって口角を少し上げてそちらに向き直る。季節相応の薄い水色のシャツと濃い紺色のロングスカートを身につけるその容姿はすれ違う者を高確率で振り返らせるほどの威力を誇っていた。

 その姿に最も目と心を奪われていたのは当然誠一である。思わず息を呑むほど誠一の目に琴音の姿は神々しく映る。

「今日のためにこの服買ってきたんですよ。似合いますか?」

 服に夢中になっているのに気づいたのか、服の裾を指で押して伸ばしながら首を傾げて尋ねてくる。

「あ、ああ……。よく似合ってるよ」

「そうですか? やった」

 琴音は嬉しそうに微笑みながらガッツポーズを作る。それに他意があるのかは考えたところでわからないので気にしないようにしながら、琴音を先導してその商業施設の三階にある映画館まで向かい、無人券売機で二人文の鑑賞チケットを購入した。その間に琴音はポップコーンと飲み物を買ってきてくれたらしく、一人分のチケットと飲み物を交換してスクリーンへと向かっていった。

 長ったらしい公開予定の映画の広告が十分ほど流れた後、部屋全体の照明が落とされて配給会社のロゴが大きく画面に映し出された。ようやく映画が始まるようだ。柔らかい椅子を座り直してストローからコーラを啜る。

 映画はどこにでもありそうな恋愛系の物語だった。高校生の頃出会った二人が社会人になってから再会し、恋に発展するというストーリー軸を中心とし主人公の女の心情や周囲を取り巻く人たちとの関係を綿密に描いた作品で、評価が高いのも頷ける内容だ。公開から一週間経っても席が七割以上埋まっているのも納得できる。しかし役者に演技経験の浅い人気アイドルを起用しているせいなのかやや演技に思うところもあり、そこだけがこの映画の残念な点だった。世の中はなぜ知名度が高い演技素人のアイドルをどうしても役者にしようとする流れを作っているのだろうか。昔からの疑問である。

 映画放映中は作品に夢中になっていたので横にいる琴音のことを気にしていなかったが、エンドロールが流れている間ふと横を見ると化粧が崩れるほど号泣している琴音の姿があり、慌ててハンカチを取り出して琴音の前に差し出した。


「ハンカチ汚しちゃってごめんなさい……。今度洗って返しますね」

 映画が終わりシアターを後にしながら琴音が軽く謝罪してくる。他人に下手に介入しようとしない性格のためまさかここまで感情移入しやすい子だとは思っていなかったので少々驚いたが、以外な一面を見ることができて満足だった。

「すみません、少しお化粧直しに行ってきていいですか? こんなんじゃ外歩けないし……」

「あ、ああ……。気が利かなくてごめん、行ってきなよ」

 失礼します、と一言残しながら琴音は早足で映画館奥の化粧室に駆け込んでいく。女性というのはそういったところも気にしなければいけないのかと改めて感じ、自分が細かいことまで気が回らない性格なのを振り返ってみて男でよかったと思い知らされた。